FC2ブログ
天気予報
ブログ内検索
月別アーカイブ
12月 31日
 
晴れのち曇り
    外   内
朝   4℃  9℃

 大晦日の朝はもう静か。
外の魚はどうしているのか、もう覗いても、見るとこはできない。
内の魚は餌を欲しがっている。水換えがシゲキになったのだろう。
 昨日は四キロの洗面器を500回も左右の手で持ち、しまいには肩が痛くなっていたが、今日は筋肉痛が出ていない。明日出るのだろうか。

 昨日の冬籠り作業をもって年賀状の燃え尽き症候群は払拭できた、模様。
これから階段登りをする気構えができた。
そのあと、部屋の掃除もしなくては。
どこまでできるのだろう。

 片付けはまず、送るためにとって置いた段ボール箱とビニール袋から。
会が終わっているのに部屋に置きっぱなし。
一山崩すとそこら一面に広がる。まとめて、どこに持って行こうか。
会のものはとにかく一階へ。

 片付けはすぐに飽きてしまった。
その後は、住所録の整理、そして今まで、スキーに行っている間の分の、
“心の起源を読んでの比較”を書き続けていた。
スキーに行くまでコツコツ書き続けるようだ。
今日はここまで。
 これから年越しのワインを飲むつもりでいます。
今年もお世話になったり、ご迷惑をお掛けしました。
お陰さまで、なんだかんだあっても良い年でした。
来年もそうなるようもっと努力致します。

 皆様も良い年をお迎え下さい。


心の起源を読んでの比較 291

 獲得する機能をとにかく融合という言葉にまとめると、融合には二つある。
身体の融合と能力の融合。
精神活動は一つの能力、擬態は一つの能力の身体への結果。
身体は、機能を叶える器として機能した。擬態は一つの能力を叶えた身体の結果。
機能は、代謝、免疫、感覚、増殖能力を増やし高めた。
この頃は遺伝子も元としての機能の一つだった。
感覚機能がやがて脳へとなって機能を高めたように、
情報機能とてして遺伝子は機能を高めていった。
その遺伝子は能力の遺伝子と活力の遺伝子とに分けられる。
能力の遺伝子は単細胞生物以前から引き続き、活力の遺伝子は単細胞生物になる頃からが多い。
 それが生物としての体が細胞壁と細胞膜をもち始め、植物と動物の体の分れ目を造り始めた。
生物としての細胞が無機質代謝と有機質代謝を始め、植物と動物の機能の分れ目を造り始めた。
生物としての細胞が細胞分裂による増殖を始め、母性という何事も起こさないように、同じ自己を増やそうとする体機能と性質機能が始まりをもった。
生物としての細胞が融合による機能増殖を始め、父性という有利な自己を増やそうとする体機能と性質機能が始まりをもった。
 ここでは減数分裂を行うことをもって、増殖から生殖と呼び名を変えておく。
 
2009.12.31(Thu)  土佐錦魚TOP
12月 30日
 
曇り 晴れたり曇ったり
    外   内
朝   4℃  9℃

 もう重装備。おそらく半日かかるだろうか。やっと重い腰があがった。
寝床体操も始まったし、これで体が動き始めることになれば。

 あともう一息。
途中手が痺れて魚を一尾落としてしまった。
怪我はなかったのでまだ良かったが、ヒヤリ。
洗面器が持てなくなるとを左右交互でなんとか進ませ、キーボードも打てないほどだった。早くすれば良かったものを自業自得。
昼前中には終わって、夕方蓋をしたら終了。

 無事蓋もできて、冬籠りに。
これで年を越せます。


心の起源を読んでの比較 290

 現在の生物はすべて、生命体の頃の機能、能力を基本的に利用し発展させている。そのようなものが生物へ至るまでを創り、生物が始まりを見せることができたと言える。能力が体を得たと言える。
そもそもエネルギーとしての能力が、物質としての体を得た訳だから。
 だが、その能力は未熟な体を得たものが多く、その能力を発揮するにはまだ体が未完成だった。
他の生命体や生物を取り込むことから始まり、体獲得の機能を増していった。
体を獲得すると他を利用しなくても、自らが代謝を行うようになっていった。
体を獲得すると他を利用しなくても、自らが増殖することを獲得していった。
単細胞生物にも生物と呼ばれるものと、呼ばれる前とに別れて行った。
単細胞の生命体を原生生物と呼び、単細胞になる前の生命体をウィルスのように分けて呼ばれている。
 生物と呼ばれるには大変な以前があったことになる。
この頃からすでに、体より能力が先行している。現在の人間はその差に加速をつけてもっと開こうとしている。
その人間としての生物となるには、これから長い長い道のりを歩んで、それから心を獲得しなければならない。それが心だと言う。
  
2009.12.30(Wed)  土佐錦魚TOP
12月 29日
 
曇り
    外   内
朝   3℃  8℃

 水を増やしておいて良かった。
案外冷えている。また寒波がくると言う。それまでにキチッとしなくては。

 昨日水を溜めておくのを忘れてしまい、今日の作業はできないことに。
まったく、しまらない話し。
燃え尽き症候群が続いているようだ。
今日は雑用を済ませて、明日する事に。


心の起源を読んでの比較 289

 生物と呼ばれるような頃、手っ取り早く体を獲得するには侵入してのっとればいい。体に不自由しているほどの能力を持っている物は、補食された時に栄養源とされずに共生的能力源とされる。
栄養源とされない限りどの道、双方が必要なものを獲得したことになる。
だが、能力が優れたものにとって直ぐに利用できる体はほとんど無く、その体を都合の良いように変えて行くことになった。
繁殖力の優れたもの、電気的に優れたもの、やがて現在活躍している組織や器官へ。
生物進化の苦悩のほとんどが身体進化の問題から生まれている。
身体進化したものほど能力の先行が著しくなっている。
例えば、老病死の元もそこに在り、再生という能力をもって賄っている。
例えば、環境不適応は能力不足に見えるが、環境に耐えるとりあえずの身体があれば、能力は芽生える。だから現在に生き残っている。
例えば、人間は過剰な能力をもって身体以上のことを実現している。
  
2009.12.29(Tue)  土佐錦魚TOP
12月 28日
 
曇り サッと小雨のち晴れ
    外   内
朝   6℃ 10℃

 カラスに起こされる。
寝ている間に雨が降った気配。
今日は減った分の水足しだけにして、少し水の動きになれて、明日替えることにした。

 糞と底水をとり静かに水を足していたら、小雨が降って来た。
久しぶりにカッパを着て、ゆっくりしていたら今までかかってしまった。
なんか、もうろうと世話をしている感じでいる。
生活リズムをとり返さなくては。
これから軽く階段登りをして、体を動かすことから始めることにする。

 階段登りを順調にしていた頃は標準体重ギリギリまで戻ったのに、今日計ったら3キロ3%肥っていた。恐ろしや年賀状。
もう戻すのは無理だろう。
このままワイン漬けが始まってしまいそうな気配。
ま、なるようになるさ。


心の起源を読んでの比較 288

 ウィルスのような生命体はそのエネルギーによって突き動かされて行った。
侵略、寄生、接合、導入、獲得、融合による自己複製は、れっきとした生物への進化の機能だった。
 そして、膜の変形性による生命体の取り込みと、取り込んだ生命体との遺伝子交換が加わり、能力の移動が行われ、統一された核を持ち、膜で区切られた役目としての生命体どうしの共生となり、単細胞の生物と呼ばれるようになって行った。
 生物と呼べるように達する頃の基礎機能のほとんどは、生命体の機能を利用している。その取り入れた機能によって、生物の条件とされる代謝、生存、増殖の機能はそれぞれの生物ごとの発展形態として定着して行った。

光のエネルギーが時空間に物質での構築を始めだした。
物質で構築された時空間に命と心が宿り生体となった。
生体は、代謝、生存、増殖の営みを始め生物となった。
生存のために代謝をし、生存の繁栄のため生殖をした。
その果てしなき生存の道のりへと選択が行われていた。
果てしなき進化の歩みは道のりへと踏み出して行った。
 
2009.12.28(Mon)  土佐錦魚TOP
12月 27日
 
晴れ
    外   内
朝   3℃  8℃

 風があるので冷えて来たようだ。
この頃は外の天気がわからなくなってきた。
5時半に目が覚めたが、起きられなかった。
今日はこのまま寝床にまた潜り込む。

 気が抜けるとこんなに体が重くなるのか。
今日はそのまま気を抜いて、ゆっくりさせてもらう。
明日は、いままでサボっていた冬籠りの養生をしなくては。

 年賀状を心ならずも終わらせてしまい、重苦しいだるさに覆われている。
その重苦しさは疲れだけではないようだ。
思い残しの重みか、後悔か、来年への抱負か、原画の追究が未熟だったことを思い知らされていた。
 渾身の一枚に辿り着いたときは、原画に対して追究するところが尽きたと思えたからだろう。ところがその時から原画の未熟さが現れて来た。
原画はその虎に忠実に。
するとそこからその虎が現れる。
やっているうち上野動物園の虎では、生命力が抑えられているような、
淋しさがうろうろしているような、、、つまらなくなってくる。
虎なんだから精悍さを望んでしまう。
すると、虎から精悍さを引き出すように、
    虎から淋しさを消し去るように、意図した。
 修正は細か過ぎた彫りで欠けてしまったところの手直しだったが、いつの間にか意図の上にのっかっている。
彫りの粗末さを原画に戻すのだから、というなんか大義名分のような言い訳。
白を使わない、墨だけで直すのが慰め的妥協点、
試みに白を入れると、言われてみないと気がつかないほどだが立体感が出て意図通り浮き出る。目的に近づく、効果はある、だが妥協が許さなかった。
墨と原画の範囲だった。
 原画に接した渾身の一枚は七十枚目ぐらいだろうか、保存して置こうかと思ったがもう投函してしまった。いずこに届くのかもわからない。
その一枚の次からは、同じものを作ればいいのか。
同じものなら慣れがあるから段々速くなるはず、が次第に手が遅くなる。
原画以上をする事は禁止が決めごと。
それなのに何故。
それまでは獲物を狙っていた虎が、私を見るようになってきていた。
そんなんことしているつもりはない。
気が付いてから元のようにと思っても、なってくれない。
渾身の一枚は分れ目だった。
原画の追究の限界を教えてくれた。
今までこんなものだろうと思っていた追究が、浅はかだったと。
 原画を描き始めた時のことを思い返してみた。
できっこない。そう思いつつやり始めた。
それがどうだろう。スッカリその世界に浸かっている。
できっこない。そう思いつつは、牛のときからだった。
牛には入り込んだ世界を教えてもらった。
虎には追究の世界、仕方、見方、結果を教えてもらった。
兎が恐ろしい。
そこにはなにが待ち受けているのだろう。


心の起源を読んでの比較 287

 生物の系統樹のハチと人間への動物と、菌類と、植物との三本の幹別れのずーと以前では、幹になる基と言うのだろうか、根っこの部分になるのだろうか。
分れ目の混沌とした細菌や原生生物と言われるあたりでは、途方もない道のりへのそれぞれの選択が行われていた。
 光のエネルギーが生まれて、物質となって、化学進化が始まって、分子進化となって、生命進化となって、生物進化となった。と、光のエネルギーが生まれたところから教わっている。
なぜ光のエネルギーが生まれたかはかは、ブラックボックスとなっている。
光がごくごく小さな物質へ進化し始めてやがて原子になり分子になった。
この辺りのどうしてなったか、化学進化の謎はいずれ解明されることだろう。
現在は無生命とされているが、その働きを目の当たりに出来た時、生物と名付けたように、生命体と名付けたように、生の名を冠した生命分子のような名が付くのだろう。
 生命進化となってからは、名のとおり生命の存在が現れて来た。
その生命体は分子が成り立たせている。その分子はごくごく小さな物質が、そのごくごく小さな物質は光のエネルギーが、その光のエネルギーはブラックボックスのエネルギーが成り立たせている。そのエネルギーがなくては物質も命も心も現れなかったことになる。
 
2009.12.27(Sun)  土佐錦魚TOP
12月 26日
 
曇りのち晴れ
    外   内
朝   5℃ 10℃

 昨日は寝たのが今日の四時。
住所を試しにプリントしてみようとしたら、インクが出ない。
残量を見ると半分以上ある。夜中では買いに行くこともならず、苦闘したが叶わず。今日残り四枚を終わらせたら買いに行ってプリントできれば幸いだが。
 もう寝ぼけたなんて言ってられない。早速作業開始。

 九時半から営業時間、インクを買いに出掛けて来ます。
先にプリンターを使えるかを見届けてから、落ち着いて仕上げることにしました。

 もうプリンターが古いせいか、途中二度も止まりましたが、どうにか動いてくれました。
ほっ。

 22時。
最後の一枚はとことんやりたくて、今までかかってしまった。
これから宛先をプリント。
今日の内に投函予定だが。

 日付が変わって二時に投函。
全部はできなかったけど精一杯でした。


心の起源を読んでの比較 286(番外編 粘菌4)

粘菌には感覚があると言う。
記憶があると言う。
考えていると言う。
意志があると言う。
意志にもとずく行動があると言う。
その記憶も考えも意志も体液系の全体的で共栄的、社会的なものとなっている。
神経系による記憶も考えも意志もその反面となり、個的なものとなっている。
 例えば、脳によってまとめられている人間は、それぞれの臓器と脳との間に葛藤がある。胃が欲しがれば食欲となり、脳の制動が働かなければ食欲は際限をなくす。
胃が欲しがっても脳が働かなければ、食欲は失せたかのようになる。
胃は縮小したり、何も無いのに働き出して潰瘍になったりする。
 粘菌を探ることによって考えの起源が探れるのではと言う。
感覚器官がないものから考えを探れるのだろうか。
神経系での“考えの起源”へは結びつくことはないだろう。
神経系だけを感覚器官と位置付けることに、こと足りないところがある。
体液系は神経系とは違う別の感覚器官ということを認めないと、その位置づけは埋まらない。
ナマコには脳がないから、粘菌にも感覚器官がないからと言うしかなくなってしまう。
 人間は神経系と体液系の両方を備えている。神経系が素晴らしい感覚器官なのでそれのみを採り上げている。仮に神経系が感覚をなくしてしまったら、体液系の隠された能力が発揮されるかもしれないことを、無視している。
 例えば植物は体液系の感覚の方がより働いていると思われる。
どちらの感覚器官を取り入れたかによって発達形態が異なっているが、神経系にしか感覚器官が存在していないように言ってしまうと、高度な神経系にしか心は生じないと言ってしまうことになる。
 
2009.12.26(Sat)  土佐錦魚TOP
12月 25日
 
晴れ
    外   内
朝   5℃ 10℃

 5℃で餌を欲しがって浮いて来た。
放っといているのに健康でいてくれる、まずは感謝。
 年賀状ができるまではと禁酒していたが、昨日は飲み過ぎて7時間も寝ていられた。今胃の薬を飲んだところ。あと11枚、明日までにやるため、ジッとしているぶんには差し支えない。

 もう直すところは見つからないだろう。
四、五枚できると、また見つかる。
すると小さな感動を覚える。
これだから辛い作業も辛く思えない。
日にちさえあれば、あと10日、12月が41日まであったら。


心の起源を読んでの比較 285(番外編 粘菌3)

 環境悪化をもって移動するわけだが、そこまで環境が悪化していたのだろうかと思うときがあった。
繁殖手段として移動を行うときは、住んでいるところが手狭になるという好感的な悪化もある。
例えば倒木に住んだ時、その全てを食べ尽くしていないうちに移動してしまっているように感じる。環境悪化の基準は餌の量だけではないようだ。
乾燥等もあるだろうが、決定的なのは自らが生みだした廃棄物ではないだろうか。
酵母が廃棄物のアルコールと炭酸ガスで自らの環境悪化を招くように、粘菌はそれなりの廃棄物をつくり、その量によって移動を判断しているのではないだろうか。廃棄物が少なければ、悪化要素が乾燥だけなら退避して好転を待つことが出来る。餌も食べ尽くすことはおそらく無いだろう。
養分も廃棄物も適度に残し、他の生物に利用されていると思える。
アルコールが人間に利用されているように。
 粘菌には司令官がいないと言っていた。命令系統が無いという。
子実体となる時には、命令されているかのようにいっせいに集結する。
現在の環境を離れる判断は死と再生を伴う。
そんな重大判断をいったい何が下すのだろうか。
 ハチの場合の、群れが大きくなり過ぎて分かれるときと同じではないだろうか。
発展を望むには巣分かれした方が好条件を望めると判断したとき、働きバチが誰に命令されるでもなく、女王ハチを育て始める。
粘菌の場合、単細胞ではこれ以上大きくなれない、発展を望むには移動した方が好条件を望めると判断したときとなる。
判断条件は複合的かもしれない、決定的な一つの条件かもしれない。
その判断は全体的なものとなっている。共栄的な社会的な判断となっている。
個の意志は役目において発揮される。
 神経系が発達しているものは社会的よりも個的な判断が優先される。
社会の意志は命令系統によって発揮される。
 
2009.12.25(Fri)  土佐錦魚TOP
12月 24日
 
晴れ
    外   内
朝   4℃  9℃

 やっと氷の張らない日になった。
気が付けば、まだ最後の水換えするきでいたので水道管の水を抜いていなかった。
凍っても破裂するほどの冷えでなくて良かった。

 一枚出来ると5分ぐらい眺めている。
時間と体力が許されれば、全部のハガキを仕上げてしまいたい。
今年は残念な気がする。


心の起源を読んでの比較 284(番外編 粘菌2)

 粘菌には、全体に行き渡る血管のようなものがある。
流れている中身は血液ではないので、細胞質か細胞質に準じた体液ということになるのだろう。この体液を通す管の壁は細胞膜と似ていると思われる。
 細胞膜の前段階的膜を有した他の原生生物や生命体が採り込まれ、共生したと推測できる。本体もさながら、採り込まれた方も変形性を持っていたのだろう。
粘菌の場合の変形性は、変形自在な膜の維持によるところが大きい。
その柔軟な膜を維持することは、原生生物そのままの発展形態を選択している。
その粘菌は、原生生物として単細胞での発展を遂げようとした。
原生生物として単細胞内共生を高度にし、能力を増して行った。
単細胞内共生として、また単細胞内社会としては、発達形態の最先端になっているのだろう。
 共生による多細胞的な発達ばかり目立っているが、現在に至る粘菌の、単細胞内共生の高度発達が成されているとしても、何ら不思議はない。
その働きが多細胞共生と似て、器官的、組織的働きをしていても、なんら不思議はない。
 その働きが多細胞共生と似て、環境悪化を以て移動手段、繁殖手段としてカビやキノコのような子実体を形成する。その集中する動きは、死への行進とは受け取れず生への躍動が感じられる。
 芋虫が蛹の中で蝶へと変身する時、同じように原形質が混ざり合い融合して、生殖作用を営める生体へとなるように、粘菌も子実体へと変態する。
この時、変態を行わせるものは体液系の化学的作用で、神経のような電気的作用では役に立たない。
 
2009.12.24(Thu)  土佐錦魚TOP
12月 23日
 
晴れ 氷厚1ミリ
    外   内
朝   2℃   7℃

 上面水温1℃、底水温2℃、
眠気が来ないようにしているせいか、3時まで眠れなかった。
まだ寝ぼけているので、書くこと浮かんでこない。

 考えることは出来なくても、手が動いてくれる。
70枚ほどから、原画を見ることもなくなっている。
手が勝手に動いて行く。
朝食を食べれば目が覚めてくれるだろうか。

 食事休憩が済むとやっと思考できるようになってきた。
予定ではあと3日程続きそうだが、心の起源を読んでの比較 が辛いところになって来た。

 また一枚終わって夕食を、食べ始まって、ふとっ。
出来上がったばかりのハガキをとりに行く。
テーブルに立てると、ながめながら口を動かし始める。
筆を持ちながら見るのとは違って、部分を見ようとしない。
直すため見るのとは違って、全体を見ている。
光を見て、影を見て、影の中へ目が入って行くと、影のうねりが見えて来た。
縦のうねり、横のうねり、斜のうねり、気が付いたらいつの間にか虎が私を見ている。
 光の先の獲物を見ていたはずなのに。


心の起源を読んでの比較 283(番外編 粘菌)

 またテレビ番組から

 粘菌は、植物でもない、動物でもない、なら菌類、でもないという。
キノコのようでキノコでない。今まで変形菌は菌類としていたが、どうやら違がう見方になって来たらしい。
生物界を5界に分けた分類には、シックリあてはまらないようだ。
粘菌の成り立ちが、5界の分類法では納まらない理由となっているのかもしれない。
 系統樹の在り方も、科学的な探求による新たな問題の浮上、そして時代を得た解明によって変化している。
過去を示すかのようにそのままに生存している生き物も、発達形態や独自形態の最先端として、系統樹へ描かれる日が来るかもしれない。
 粘菌は全体が一つの細胞という。
行動する単細胞生物としては驚くほどの大きさと機能がある。
仮に多細胞で群を抜いた発達形態が人間として、
  単細胞で群を抜いた発達形態は粘菌となるのだろうか。
いま、現存しているすべての生き物は、その時点で選んだ発達形態の最先端となっているように思える。
例えシーラカンスでも。
 粘菌には神経も脳もないという、感覚器官もないと言う。
が、感覚していること、感覚する能力があることは確かめられている。
この辺りまではナマコと似ている。
その感覚で餌や様々な環境を判別し対処している。
ここで粘菌にないとしている感覚器官は、神経的な電気的機能をもっている感覚器官のことだろう。
粘菌が感覚しているのは体液的な化学的感覚になっている。迅速性はないが、シッカリとしたものになっている。
 体液の化学的感覚や伝達やその働きは、人間でも重要なものとなっている。
神経の電気的感覚を取り入れなくても、ナマコと同様に十分成り立つ発展形態となっている。
 
2009.12.23(Wed)  土佐錦魚TOP
12月 22日
 
晴れ 氷厚6ミリ
    外   内
朝   3℃  6℃

  上面水温2℃、底水温3℃、
水温計を見るために氷を割るとき、手が痛いほどだった。
 結局昨日は三枚。
一日平均七枚というところ、二十五日までになんとかというところ。

 ジッとしていると、氷の厚さほどの寒さが滲みてくる。
階段登りを止めているせいだろう、体の燃焼が下火になっている。
一枚終わるごとに少し動く事してみよう。

 ノルマともいえる七枚を達成。
あと一枚は出来そう。一時頃になってしまうだろうか。


心の起源を読んでの比較 282

 何れも系統樹の最先端的立場にあるハチと人間は、同じ時間の長さを経ているのに、それぞれに社会をつくり生きて来たのに、何故このような間柄になってしまったのだろうか。

人間は不幸と思って生きている生物、
心を危険なものと思っている不幸もの。
満足感を得ると次の不幸感が訪れる。
達成と後悔。達成と不満。
その精神活動によって能力の進化が加速されている。
自己の満足は他の不満が均衡になっている。
そこでも、どこかで、母性は、利他性も。

ハチには不満感がない。
他の自己との間に競争力が働いていない。
進化は加速されていない。
自己の役目に生きる生命力。
自己社会と共に生きている。
自然と共に生きている。
進化を推進する生命力が穏やかに働いている。
 
2009.12.22(Tue)  土佐錦魚TOP
12月 21日
 
晴れ 氷厚2ミリ 
    外   内
朝   3℃  8℃

  上面水温2℃、底水温3℃、
氷厚2ミリはなのに水温は変わらない。
このあたりになると、変わりにくいようだが、風がこのところ強くない。
 昨日は到頭十枚、その分今日は寝坊。

 起きてから今までたった一枚に夢中になっていた。
気がつくと、渾身の一枚が出来上がった。
原画を描く時、これは出来ないだろうと思いつつ、でもやってみたかった。
粗彫りで、やっぱり駄目かと突き落とされ、
それでも諦められずにいた。
それが、まさかの一枚ができあがった。
今回の限界の作品。
思い返すと愉しい苦闘だった。
体中が重い。
この重さからいつ抜け出せるのだろう。
抜け出なくてもいいかもしれない。
抜け殻のような気分。

 本当に気が抜けてしまったようで、座ったままウトウト昼寝をしてしまった。
結局今まで何もせず、これから気を詰めてやらなければならないハメに。
でも、新たな気分でできそう。


心の起源を読んでの比較 281

 くしくも【】は、心が社会を造ると言っている。
ハチでは、始めに社会があってと言っている。
すると、社会をつくっているハチには心があってもいいのではないだろうか。
それを心がない社会として社会性昆虫との名や階層を設けている。
社会性とは人間の本能的性質となっている。
社会性とはハチの本能的性質となっている。
同じ本能的性質に心が加わると階層が出来てしまう。
その心が有るか無いかは人間が判別する。
【】の心は、高度な中枢神経系の造った心であって、
ハチは、生物の根源的な心という違いがあるにしても、
社会性というハチの本能的性質をもっていて、生物の根源的な心しかない、ただ生きているだけの生物のハチが、どんな社会にしても社会を造れるとは思えないのだが。
もしかすると人間は、生物の根源的な心を失っているのか。
それともそれに気が付かないのか。
 
2009.12.21(Mon)  土佐錦魚TOP
12月 20日

晴れ 氷厚3ミリ
    外   内
朝   3℃  8℃

 上面水温2℃、底水温3℃、
氷厚3ミリは変わらないのに水温は1℃違う。
どうしてか? 寝ぼけていて考えることができない。

 透き通った日がずいぶん寝ている。そう言えばもうすぐ冬至になる。
キリストが生まれた日が、実はハッキリしていなかった。
そこで土着の宗教での、復活を意味する冬至の行事をとり入れた。
 なるほど、冬至は復活か。
なぜか、陰と陽、死と生が。
まだ先は長いが、陽と生が復活する。
とにかくクリスマスには乾杯しなくては。


心の起源を読んでの比較 280 

 ハチと社会も卵とニワトリのような側面をもっている!
一見、どちらが先かと考える!のだろうか。
 科学的に見れば卵が先と言えるように、ハチと社会もハチが先と言える。
【ハチでは始めに社会があって】 社会から考えるとハチが後になるのだろう。
〔ハチでは始めに個があって〕 ハチから考えると社会が後になるのだろう。
 ハチも最初は個から始まり細胞内社会を延々と経て、やがて
〔自己が分化された社会では、他者も自己の分化だった。〕へ辿り着いた。
ハチは自己社会であって、人間のような他者社会ではない。
生物の根源的発展形態であって、本来同列としての比較対照にならない。
生物の系統樹の幹からの分岐となって、その分れ目から目指すところが異なっている。
ハチは他者も自己である自己社会の発展形態を選び、現在先端的立場にある。
ヒトは自己と他者である他者社会の発展形態を選び、現在先端的立場にある。
 
2009.12.20(Sun)  土佐錦魚TOP
12月 19日
 
晴れ 氷厚3ミリ
    外   内
朝   2℃  7℃

 表面水温1℃、底水温2℃、
みんな底でジッとしている。それでも水温計を引くとわずかに動く。

 一枚へさらに時間がかかるようになって、一日やって五枚か?十枚は出来そうにない。それでも一週間で五十枚出来れば差し当たっては出せるようになる。
今年できる精一杯をしてみよう。

 日付が変わってしまったが、やはり十枚にはとどかなかった。
二枚続けて失敗してしまい、止めることに。
眠くなっていないのに、集中力が途切れると出来なくなる。


心の起源を読んでの比較 279

 ハチには中枢神経系の心の結びつきはないにしても、もっとハッキリとした遺伝子の心の結びつきがある。生物の根源的なこころの結びつきがある。
 仮に、ハチの社会を習性という言葉に置き換えてみよう。
習慣で身に付けたものではないから習得的なものではない。
すると習性ではなくなる。生得的と言える。
すると性質だろうか。
 女王ハチと働きハチは共に雌であって、性質の同じ卵から発生する。
女王バチを必要としたときに、はじめて意識的に育てられる。
育てる必要がなければ、すべて働き蜂となる。
 必要性は、何が生むのだろう。何の意志なのだろう。
社会が必要性を感じたとき、社会が生む、社会の意志と言える。
 その社会は、何が生むのだろう。何の意志なのだろう。
社会が必要性を感じたとき、社会が伝える、社会の意志を遺伝子に伝える。
遺伝子が必要性を感じたとき、遺伝子が働く、遺伝子の意志を伝える。
 その遺伝子は、何が生むのだろう。何の意志なのだろう。
核酸の羅列の複雑さなのだろうか。
ブラックボックスなのだろうか。

 ハチの社会の意志は、自己の意志となっている。
個も社会の意志となり、自己の意志で社会が働く。
 人間の社会の意志は、他者の意志となっている。
社会も他の意志となり、他者の意志で社会が働く。
 
2009.12.19(Sat)  土佐錦魚TOP
12月 18日
 
晴れ 初氷。
    外   内
朝   2℃  7℃

 表面水温2℃、底水温3℃、
5時41分の地震で目が覚める。
凍っていたので鉢の水が溢れる事はなかったよう。

 丁寧さをとりもどしてさらに気が入って来たが、その分時間がかかってしまった。今年もやっぱり時間が足りない模様。
鏡の自分と目をあわせて充血した目に驚いた。 
おまけに、お尻まで痛くなって来た。
いい事は、腰が痛くならない。首はつらくなっても、それでも痛くならない。


心の起源を読んでの比較 278

 “こころして”とは、分別(ふんべつ)を物語っている。
分別は受けとりかたで正反対の意味をもっている。
わきまえていること、と、俄にとらわれること。
ハチはどちらの意味を以て、ハチの道を選んだのだろうか。
 “俄にとらわれること”は命の働き。
 “わきまえていること”は心の働き。
 言葉の妙は、心を言い当てていることもある。
本来の意味に近い表現もある。
他のほとんどは精神活動に当てはまっている。
いい加減さでも、遊び心でも、単に便利な言葉としても。
ハチは始めからにせよ、回帰的にせよ、結果的に言い当てた心を以て選択した、と感じている。
 人間は道を選ぶ時に、どの言葉で、どの心を以て、どの心を選ぶのだろう。
それによっては、相変わらず突き進むのか、到達するのか、生存へと落ち着くのか、絶滅するのか。
 
2009.12.18(Fri)  土佐錦魚TOP
12月 17日
 
曇り
    外   内
朝   3℃  8℃

 昨日より冷えているようだが、水温は3℃のまま。
風がないからだろうか。
水温計に重りを付けて底の温度を測って、差を見たくなって来た。

 昨日は、虎とのつきあいがなおざりになって来たように思えたので、原画と並べて真剣にみつめてみた。
 何となく掴めて来たので、筆を持つと。
さっきより葉書の大きさが小さくなっている。
とうぜん小さく見えているのだが、なおざりになったときは大きく見えていたことになる。
小さく見えると、以前のようにゆっくりと考えながら直す。
すると、虎が戻って来た。


心の起源を読んでの比較 277

 人類としての他と他の社会では、一体性、統一性が希薄になっている、
人類としての利他性も同じような経路を辿る。
すると、利他性の気遣う範囲は、身の回りの社会へと狭まって行く。
その波のように繰り返す反復の中で、自己としての一体性と、共に生きようとする社会性とが選択を始めた。
その波の希薄が満潮に達したとき、その選択は自己としての一体性と、共に生きようとする社会性を選んだ。
共に生きる自己として統一されて行った。
この選択もまた進化なのだろうか。
これは人間の言う退化なのだろうか。
これは人間の突き進む進化から置き去りと見えるのは、確かだろう。
それともハチは教訓を得て回帰したのだろうか。
ハチは人間のように突き進まずに心して、始めから希薄な社会を拒否したのか。
それとも回帰的に思い至って拒否したのだろうか。
 
2009.12.17(Thu)  土佐錦魚TOP
12月 16日
 
曇り
    外   内
朝   3℃  8℃

 昨日と同じ水温。光が当たってもジッとしている。
 昨日は一時半まで焦点が合っていた。
四時間で目が覚めた訳だが、いつもは寝汗をかいているので起きた途端に着替える。それが一滴もかいていない。目は冴えているのに、だるさがある。
この分では階段登りをしない方が良さそうな気がしてきた。

 目が覚めて来たらだるさは取れた。寝ぼけていただけ?
虎とのつきあいが親しくなり過ぎたのか、少しなあなあになってきたのか。
決まり過ぎて来た。
原画がそのようになっている事に気が付いたが、これで行くしかないだろう。
この先気ずくことがあれば、来年の兎で考えよう。


心の起源を読んでの比較 276

 ハチの社会は、けっして社会が先に在った訳ではない。
結果的にそうなったので、脆弱な個が寄り集まった訳ではない。
個は役目に徹し、社会として統一された個の繁栄を望み、社会に対して多くを求めていないからだ。
それは個としての見返りを求めていない事になる。
もともと社会が自己の発展形態だから、なにも社会に求める必要がない。
人間の母親が子に向ける無償の愛の根源と似たような、無償の自己貢献と言える。
 人間の母親が子に向ける無償の愛の貢献は、母性がもたらす。
細胞分裂した互いが互いに自己として他者として認め合う、自己愛が他者愛として始まる。やがて母性となり、利他性となり、社会性となる。
 人間の社会への貢献は他者貢献と言える。
人の社会は、今のところ他者としての個と個の結びつきであって、高度な中枢神経系の心ではあるが、丹念なこころの結びつきとはおよそ言えない。
自ら生みだした心を御していない。
 心の社会より経済社会の方がより堅固に形態や結びつきになっている。
一個一個の役目が社会に欠かすことができないほど重要ではなく、現在までの社会体制は、個が行う社会への貢献が個への幸福とつながっておらず、社会は個を利用するが個の幸福を望んでおらず、個がそれこそハチのように心から社会へ尽くそうとする発想が乏しい。人間の個は個の幸福を追求するのが精一杯と言うところではないだろうか。
 また個が社会を利用して個の意志を遂げようとする。
 
2009.12.16(Wed)  土佐錦魚TOP
12月 15日
 
曇り
    外   内
朝   3℃  8℃

 凍らないがこれでは底は4、5℃ぐらいだろう。
凍るのもじきだ。待っていた冬は来てみるとやっぱり過酷だった。
 昨日は、0時過ぎているのに眠くならなかった。
そのまま続けると、タッチが粗くなって虎が嫌な顔をしだした。
これではやらない方がいい。
断念して眠りにつこうとしたが2時間ほど眠れなかった。
 こんなに日が高くなって目が覚めたのは、どれほど前だったか思い出せない。
この調子ではやはり出せない葉書が出てしまいそう。
気が入り過ぎているのだろうか。
出来上がった葉書は一枚一枚良くなるが、時間はその分かかってくる。
また去年と同じ事を繰り返している。

 昨日の失敗はどうやら目の焦点が合わなくなっていたからのようだった。
今日は最初からハッキリ見えている。
 昨日の失敗からをしかたなく直していると、そこから次から次と、どういう訳か筆が動くようになっている。
いままでは原画と比べながら欠けた箇所を直す作業が主だったが、どうやら繰り返すうちに直す場所を覚えて来たのだろう。
すると筆の無駄が無くなった。
原画との見比べる無駄が無くなった。
原画との見比べる際の、視点を合わす無駄が無くなった。
おそらく、疲れがだいぶ少なくなるのではと、期待している。


心の起源を読んでの比較 275

【心の世界が破れたなら、すべての心は生物世界へもどる。それは心の死であり、私たち人間も生物として生きるだけになる。】
人の社会は丹念に心と心の結び目を一つずつつないで造る。のならば、
心の世界も丹念に心と心の結び目を一つずつつないで造る。のではないだろうか。
それとも心の世界は心を保有する概念的存在なのか。 
 ともかく心が死ねば、【私たち人間も生物として生きるだけになる】可能性をもっていることになる。
人間は心があるから、生物として生きるだけではないことになる。
これはことによるともの凄い発見ではないだろうか。
人間とは、心を自ら作り、その心を得ることによって、他の生物とは異なる別の生物になった。
これは自らを創造主と言っていることになる。
そう言えばほかにもいろいろ創っている。
しかも、心を失えば、他の生物と同列に戻れる。戻ってしまう。
すべては、心次第。
だが人間は、
心を造ることは出来ても、
心を定めることは出来ても、
心の世界を、
心の社会を、
心の歴史を定めることは出来ても、
心をどうすることも出来ない。
 
2009.12.15(Tue)  土佐錦魚TOP
12月 14日
 
曇り
    外   内
朝   7℃ 11℃

 なんとか7℃を保ってくれた。
ホッとして冬籠りへとなりそう。
と言ってもしばらく放っておくだけだが。

 虎とのにらめっこもほぼ決着がつきかかっているようです。
一枚仕上がるごとに愉しくなります。
年賀状で出してしまうのが、なんか、淋しくなるような。


心の起源を読んでの比較 274(番外編 環境が先か生き物が先か)

 昨年の牛の時には葉書の世界に入り込めたが、牛には入れなかったことに気が付いた。
 今年は虎に入り込んだかのように感じている。
昨日作業をしていたら、この虎はどんな状況かが浮かんできた。
 思いの巡りは虎が先か自分が先か、解らないときがある。
虎が、ここが足りないと言ってくる、そこを直すとそのまた訴えかけてくる。
 そんな時、環境が先か生き物が先かと、自然選択、自然淘汰と言われる言葉への疑問が浮かんできた。

 心の起源を読んでの比較を長い間書いている。
書く以上は、言葉にする以上は言葉や知識を学ばなくてはならない。
嬉しいことに友人がいろいろな資料を絶好の機会として与えてくれた。
今回も本屋さんに頼んである。
じきに読み、学ぶ機会が訪れてくれるだろう。
すると、今まで書いて来たもののように、感じたものは知識に馴染んでしまう。
知識がないから風変わりな感じが平然としたものとなっている。
 例えば、バクテリアは環境の束縛がなければ増え続ける。
環境次第、環境は自然、環境が生物を許容する。これは環境が生物を選んでいることになる。
光の世界、物質の世界、地球の世界、地球化学の世界、分子の世界、生命他の世界。この順序は物質から見た世界となっている。物質世界に生物は存在する。まさにその通りになっている。
 【】はその基準に則って人間からの見方となっている。
 〔〕の感じはこの基準を則ってないようだ。人間からも見ていないように感じる。
人間の内側に向かっての見方。
人間を超えようとしない見方。
 光の世界の前のエネルギーの世界、そこから分かれる次の段階から既に違って来ている。
 光の世界の前段階のエネルギーの世界から次の段階を選ぶ時、光の世界へと進む方向を【】は選んだ。光の世界は物質エネルギー世界、人間はこの中にいるから当前と言える。
 光の世界の前段階のエネルギーの世界から次の段階を選ぶ時、命と心のエネルギーの世界へと進む方向を〔〕は選んだ。命と心のエネルギーの世界、〔〕はこの中にいるから当前と言える。
すると、命と心のエネルギーが物質世界を選んだことになる。
 バクテリアの話しに戻すと、バクテリアがその場所を選んでみた。
環境が合えば増えるし合わなければ止める。
地球を試してみた。合えば増えるし合わなければ止める。
どうやらたまたま合ったようだ。
地球は地球生物と呼ばれる場に適していたようだ。
 
2009.12.14(Mon)  土佐錦魚TOP
12月 13日
 
晴れのような曇り
    外   内
朝   7℃ 11℃

 やっぱり、今日餌を与えるのは無理がある。
冬将軍がやってくる。
でも、やっぱり、今日が最後の餌になりそう。
明るくなってから決めよう。

 日が出ても7℃から上がらない。
北風が唸っている。絶対餌を与えるのは無理がある。
でも見に行くと餌を欲しがっている。
見に行かなければ良かった。
明日からもう春まで与えないと思うと、
北風に震えながら与えてしまった。
それが魚のためになるのだろうか、迷いはしたが、考えもせずに。

陽のさす草地に獲物はいる、
まだどれを襲うかは決めていない、
身をかがめて、音をころして、
物陰から物陰へ、今は近づくだけ、
陰に溶け込む縞模様、
伏せた耳が僅かでもかがう、
眼光が定まる。
油断が獲物、
いっさいは閃光と化した闇に。


心の起源を読んでの比較 273

 【(たとえば人の社会)は個体(つまり個人)の自由な意思にもとづいてつくられる連帯である。生まれてくる個体は丹念に心と心の結び目を一つずつつないでいって、その結果として社会がつくられるというかたちをとる。】
 心があるから人間社会は造られることになる。
人間の生物社会は、心が無い生物社会とは別物になる。
もはや人間の造る社会は、生物社会とは一線を画した人間社会と別個に言うべきなのか。
【(たとえば人の社会)は】【生まれてくる個体は丹念に心と心の結び目を一つずつつないでいって、その結果として社会がつくられる】
 これが心の社会なのだろうか。
それとも人間社会なのだろうか。
人間社会は心を繋がないと出来ない社会。
ハチの社会は心が無くても出来る社会。
ハチの社会は単なる生物社会。
人間社会は生物社会、それとも心の社会、それとも別個の人間社会。

生物はすべて細胞から造られてきた。
生物はすべて遺伝子によって造られる。
人間は細胞から遺伝子よって造られ、心を造る。
もはや人間は心の創造主になったことによって、他全ての生物とは別の存在になっている。
 
2009.12.13(Sun)  土佐錦魚TOP
12月 12日
 
雨上がり
    外   内
朝   8℃ 11℃

 夜明け前。水温を測ってここに座る。と、直ぐに虎とにらめっこを始める。
獲物を定めているはずの目がこっちを見ている。
カラスが鳴くと、我にかえる。
 刷りは途中で、とりあえず刷った分の修成へ。
五枚修正しただけで手が強ばっていた、から。
やはり順調には、終わらせてくれそうにない。
とにかくやるしかない。

 8℃だから餌をすぐ与えても良かったのだが、少し温まるのを待って与えた。
思惑通りだったが、明日を無理して与えるかが迷いどころ。
明後日には冷えがくるだろう。ほんとなら明後日に冬籠りさせたいところだが、
怠け癖と冷たい水に手を入れる恐れがサボらせている。
年賀状を造らなくてはと言い訳をして。


心の起源を読んでの比較 272

 【生物世界の歴史の途方もない長さに比べれば、心の世界の歴史はまだ浅い】
【】の言う心の世界の歴史とは、人間が「心とは」と、考えだしたことを世界として、その歴史を言っている。
それまで「心とは」などと考えた生物はいなかった。
心の歴史の範囲は人間の思い返せる知識の範囲となる。
だから心の範囲は定めることが困難なほどに広く、心の定義は定める視点によってことごとく異なる。まして歴史となると人間の歴史からしか探ることができない。
「心は」とか、「心の世界は」とか、「心の社会は」とか、「心の歴史は」とかを、人間がそれぞれに定めることが出来る。
 すると、生物学から心の歴史をさかのぼるに連れて、人間の心より次第に劣る心となって行く。
もしかすると、人間以外からは次第に劣るどころか、心は無くなっていくものかも知れない。
その最も劣り切ったところ、消えそうなところが心の起源となっている。
それは海から川に向かって海の起源を探るようなもので、海から川に至った途端それは川でしかなくなる。
それは、心の歴史をさかのぼるに連れて、他の生物は人間より劣る階層となって行く。
その心の歴史が途絶えたところから、心がなくただ生きているだけの生物となって行く。
それは、人間以外の心を、心とは認められないようになって行く。
 
2009.12.12(Sat)  土佐錦魚TOP
12月 11日
降り始めた雨 そのまま一日雨
    外   内
朝   7℃ 11℃

 一日降っているのか、集中するにはいいが。
出来ることなら今日刷り終えたい。
昨日続けて五枚刷っただけで、首筋にはりがある。
手もだるい。

 十枚刷ったら汗が出てきた。
二十枚で汗が垂れた。
三十枚で散った。
一枚脱ぎ、二枚脱ぎ、もう白いシャツだけが汗を吸う。
傍らにタオルを置きに立つと体中がひんやりする。
これでは着替えないと風邪をひく。
とりあえず羽織ってから。
これでは水分補給をしなくては。
立ったついでに休憩。
濃いめのお茶が美味しい。


心の起源を読んでの比較 271(番外編 参考資料)

 心の起源を持って来てくれた友人が、また教えてくれました。

 参考資料を有り難うございます。
http://www.brh.co.jp/kenkyu/6report/6_hashimoto.pdf
早速読ませて頂きました。
専門的にはチンプンカンプンですが、所々解るところがありました。
全体を通して感じたことは、やはり私のは根拠のない感じただけの考え方であったと言うことです。ところが奇妙にも重なりかと、これも感じられるところがありました。もし良かったら目を通して下さい。

 文中に“遺伝子が形を決めるという考え方の対局に位置する”という疑問と受け取れることが書いてあった。
 例の如くこの言葉に感じたことだが、遺伝子は現在の統一された生体の他に共生した生命体や生物の発生をも受け持っている。発生時にその生き物の順番がきて発生すると、その後はその生き物に発生過程が委ねられる。そしてその生物の受け持つ段階が済むと次の生物へと発生過程が受け継がれて行く。
次の生物が発生する時には統一された遺伝子が橋渡しをする。その後はその段階の生物がと、胎内では過去が再現されて行く。
 例えば、ミトコンドリアが取り込まれて統一された生物へとなった時には、発生時の自己発現の遺伝子は統一された核へと移すが、発現すると自己に留めていた遺伝子で自己を再現して行く。自立した役目を果たす。
 例えば、進化した複雑な多細胞生物になると、人間の胎児に水かきが現れても、次の代の生物に水かきが付いていなければ、取り除いてしまう。
進化した複雑な多細胞生物になると、ミトコンドリアのように遺伝子を保存することなく、その能力を保存することで、誘導という方法となって行く。
 それを別枠内の“誘導と応答”が科学として答えてくれていると受け取れる。
最終頁に“細胞集団は次の細胞集団とが絡み合いながら”とある。
以前の細胞集団を以前の生物と置き換え、次の細胞集団を以後の生物と置き換えることができる。
 別枠内の“エネルギー産製とパターン形成”での、
ミトコンドリアの量的に異なる配置が、分化に影響しているのではとの言葉は、逆と感じている。
 例えば、ミトコンドリアは心臓に最多量いる。この事は心臓が生物だった頃ミトコンドリアを多量に保有していたことを意味している。その生物を統一された生物として共生に採り込み利用しているからで、ミトコンドリアはその生物の個性となっている。
ミトコンドリアの量的に異なる配置が分化に影響を与えているとは感じられない。
2009.12.11(Fri)  土佐錦魚TOP
12月 10日
半分晴れ すぐ雲は消えて 晴れ
    外   内
朝   7℃ 11℃

 青い空が半分、ちらっと星が、白い雲の向こうに半分よりかけた白い月。
このまま夜が明けないような、動いていないような、風もなく、音も無く、
静か。

 ずいぶんと形になって来た。
もう、彫るところがなさそうに思えて来た。
原画と見比べてジーッとしている時間が長くなった。
それでもここはこうだろうと、刀を入れる。
その刀が余分だったと次の刷りで気が付く。
手の入れ過ぎに気が付くようになると、欠けたところも気にかかるようになる。
気が付いたところを赤で印をつける。
さ、明日から刷りだ。

 もうじき日付が変わる。
五枚だけ刷ってみた。
ひどい失敗はない。
明日のつもりが試しに補整したくなった。
一枚目、何となくぎこちない、
二枚目、何となく流れが感じられて来た。
三枚目、何となく繋がって来た。
四枚目、見えて来たぞ。
五枚目、変な感じ、虎になった?自分の虎?虎がそこにいた?


心の起源を読んでの比較 270(番外編 人の死は関係の死3)

 せっかく、関係の死を提示してもらったので、
“死とエネルギーの関係から精神活動は人間から独立できるか”を、
逐ってみることに。
死は二つの死に分けることが出来る。
身体の死とエネルギーの死に。
身体の死をむかえると、エネルギーがまだあっても死んでしまう。
エネルギーがなくなると、否が応でも身体は死んでしまう。
エネルギーには、命のエネルギーと心のエネルギーと物質のエネルギーがある。
命のエネルギーは誰しもが認めるだろう。
心のエネルギーは人間以外の生物に有るか無いかを別にすれば、人間になってからは誰しもが認めるところだろう。
エネルギーと言えば物質のエネルギーと言えるうえに、身体は物質をもって時空に構築されるので、誰しもが認めるだろう。
“認められるエネルギーからしても〔物質、命、心=生物〕ということになる”
死ぬと物質だけ残って命と心が関係を絶つ事になる。
上手い事に、ブラックボックスでの命と心の一時待機は消滅ではないから、関係を断っているという表現がぴったりと当てはまる。
ブラックボックスへ行ってしまった命と心は、何も出来ない。
すると、命と心は身体がないと生物として存在できない事になる。
身体から独立する事は不可能になる。
ところが、命と心は元からエネルギー体なのだから、ブラックボックスへ納まらなくても何とかなっているのではないだろうか。
それは叶わない。
ブラックボックスにては心に変わる。生物にては生心に変わる。
ブラックボックスにては命に変わる。生物にては生命に変わる。
生命も生心も命と心から働きを得ている。その働きを利用できないか。
ところが、身体に宿らなければ何も出来ない。
心は身体に宿るとその生物独自の生心となる。
生心は人間になると精神と解釈されるようになる。
精神は人間が死ぬと関係を絶つことになる。
精神は教育や知識によって影響したり伝えることが出来ても、独立することはできない。
の、だろうか。
 
2009.12.10(Thu)  土佐錦魚TOP
12月 9日
 
曇り
    外   内
朝   7℃ 11℃

 冬曇り、このまま暖かくならないのか。
明日は雨が降るのだろうか。

 彫りの目安がついた。版木にも目安をつけた。
今、糊の乾くのを待っている。
乾いたら、葉書の大きさの紙で刷りながら、角度の微調整。
また気になった場所をちょこっと彫って、刷っての最終段階。
このまま順調に行けば、今年は全ての人へ出せるようになりそう。


心の起源を読んでの比較 269(番外編 人の死は関係の死2)

 死後の関係まで残すのは、しぶとい人間だけではないだろうか。
ほかの生物が死して残すとすれば遺伝子の関係と言える。
社会的関係や死して尚尊重させたりさせたり、死後に何を残すか、死後をどうするか、死後はどうなるのかまで思いを巡らすのは、人間だけと言える。
人間は死後に思いあぐね、死後に恐怖を抱き、とうとう死後の世界まで創ってしまった。
他の生物は死を恐れ死を悲しむが、死後を恐れ死後を憂うことはない。
強いて言ってみれば、死後に目標を定めていると見える。
生命体の本質が強ければ強いほど、死後に再生される自己がもっと有利な自己になっているように、生きている間に努めている。
それは日常が自己の死と再生の連続となっている。
人間は自己の再生という子への意識が希薄になり、子育ては他の始まりという要素が加わっている。
繁殖能力が生存の役目、生存が代謝の役目、繁殖能力が衰えれば生存の意味を失い死を迎えるが、人間はしぶとく生き続ける。本来の生存の役目から離れ、頑固な自己が始まる。世代交代を超えた継続社会はその分繁栄し複雑になり、おまけに生殖意欲にまで影響を与えている。
 人の死は関係の死と言える。
それは親族家族関係のような自己の遺伝子の及ぶ範囲の限定によって成立する。だが、人間関係、社会関係と広げて行っても“人の死は関係の死”と言える。
どうやら一人称二人称的限定となるのか。
どうやら三人称、他人称辺りになると“身体の死”となって行くのだろうか。
“身体の死”とする時でも遺伝子の範囲の限定を付けないと、大変なところまで波及してしまう。
 “人の死は関係の死”に但し書きを付けないときは、
考えられる全ての関係を受け入れなければ、ならなくなる。
 
2009.12.09(Wed)  土佐錦魚TOP
12月 8日
 
晴れ
    外   内
朝   4℃  9℃

 とうとう4℃。
黒い魚はどこに居るか解らないくらいジッとしている。
次の土日曜辺り餌を与えられるかと思って冬籠りさせていないが、いよいよだ。

 彫りたい時に彫って、書きたい時に書いて、のっていると階段登りは後回し。
朝食ですら忘れてしまう。
この頃は目覚ましもかけていない。
寝たい時に寝て目が覚めると起きて。
なんて幸せな時間だろう。
幸せな日々だろう。


心の起源を読んでの比較 268(番外編 人の死は関係の死)

 予告編から既に始まっていた次の番組。
 “「死ぬ」ってどういうことか考えています。”
即座に答えていた。「死は生との契約」
死ぬ事は契約を果たしたことになる。
だから、契約期限へ向けて始まっていたり、契約期限が来たり、来たと勘違いすると、老、病は働き出す。
 どうやら宿題の真意は、死ぬ現象でなく、死ぬ状態の問だったようだ。
期待していたのは死の解明だったから、勇み足と言うところ。
 教授は優しく、達観した立場から、さわりの部分を話しているような、生温い進行だった。
哲学なら哲学なりに、もっと与えて欲しいのに。
 家族の死を例にして、人の死は、関係の死と説いた。
      関係のない人の死は、身体の死と説いた。
すると、「僕は毎日死んでいると思う」と、突っ込む。
    「昨日の俺はもう死んで居ない」。
すると教授が、『そう言う死の使い方をするんだね』
このあまりに無責任な言葉で、教授の印象は生ぬるさの上に甘さが加わってしまった。自分で「死ぬ」ってどういうこと、この答えに関係を持ち出しておきながら、関係の展開を人ごとのように言っている。
一端関係を持ち出せば方々の関係に及んでしまうことは、私にだって想像がつく。
死は関係の遮断と言う。
それならどんな関係の遮断なのか。
家族関係の遮断のみか。遺伝子的、精神的、社会的関係か。
関係のない人の死は身体の死と言っているが、人の死と言うからには何らかに関係している。社会関係か、人間関係か、時間の関係か。全ての関係に波及する。
「僕は毎日死んでいると思う」は、時間の関係を言っている。
時間の関係の遮断が死であるなら「昨日の俺はもう死んで居ない」も成り立つ。
 それでは生との関係はどうなるのだろう。
死体という物質は生との関係を絶った事になる。
死生学と言う以上は、切っても切れない切りのない問題だろう。
 そして、死後の関係はどうなるのだろう。
関係とは生きている時だけだろうか。
逆に死者は、死後に関係だけを残して逝くのではないだろうか。
生の関係は死によって遮断されるが、
入れ替わりに、死後の関係が生まれると言えるだろう。

2009.12.08(Tue)  土佐錦魚TOP
12月 7日
 
晴れ
    外   内
朝   5℃ 10℃

 北が吹き出した。
晴れた冬、冬らしくなってきた。

 仕上彫りにかかってまだ二日なのに、葉書の大きさの世界に入り込んだように思えて来た。
昨年は修成の段階で初めて体験した世界だった。
今年は彫りの段階で入れたとは。
粗彫りの挫折感が誘い込んだのだろうか。
「こんなもので何とかなるだろう」、「結構ましではないか」、
そんな気で刷ってみると、挫折とは自惚れが持って来るのだろうか。
気をとり直して刀を持ってもどこから手を付けていいかわからない。
それでもしばらく原画と見比べていると、ここかと掴めてくる。
手をつけるとそこから次々と進んで行く。
対象が見え始めて来た。
原画と版木の白黒反転も左右反転も不思議と妨げにならない。
ここは白が必要と感じるようになってくる。
でも、その白は原画にない。今までの彫りは原画に忠実に、機械的に一彫り一彫りの積み重ねだった。気が付くと形になって行った。
二度目の彫りも原画と比べて近づけて行く。
仕上彫りも刷っては彫り、原画への忠実だった。
原画でさんざん追究してあるから、それを忠実に彫れば間違いない。
それなのに、白い矛盾と黒い矛盾を取り除いている。
 動物園で見て来た虎はこんなだった。でもそのままでは、ただうろうろしているだけで虎らしさが見あたらない。
あの虎の個性を大切にしながら、野生の息吹を与えたい。
個性を隠していた白と黒を、野生を覆っていた白と黒を削っていた。
これでいいのだろうか。このまま続けていいのだろうか。
 昨年修成で入り込んだのは原画の世界と言える。
今年の彫りの段階で入り込んでいる世界は何の世界だろう。
去年までは自我を入れないようにして、牛を生かしたいと自己を隠した。
それが。どうだろう。去年までの抑制とは違う。
原画の線を刀が勝手に切り除いてしまう。
でも、去年のように研ぎ澄まされた世界ではない。
命を削るような危ない感じはしない。
もしかすると彫り上がったときに悲壮感がないかもしれない。
修成の時にどうなるか、恐い思いをするのだろうか。
今まで経験しなかった愉しい思いをするのだろうか。

 暗くなってから風が唸りを上げている。
今日は餌を与えなくて良かった。
外の魚はちょっと心配。


心の起源を読んでの比較 267(番外編ナマコ9)

物質はどこからエネルギーを得ているのか。ブラックボックス?
心命はどこからエネルギーを得ているのか。ブラックボックス?
時空はどこからエネルギーを得ているのか。ブラックボックス?
時空そのものが一つのエネルギー体なのか。
時空そのものはエネルギーの受容体なのか。
時間そのものが一つのエネルギー体なのか。
時間は物質量によって変化するエネルギー。
時間は消費量によって変化するエネルギー。
時間は対比量によって加速するエネルギー。
時間は速さがいろいろ変化するエネルギー。
空間は時間のエネルギーを閉じ込めておく。
空間はエネルギーをいつまでも保持じする。
空間そのものが一つのエネルギー体なのか。
精神は独自空間に受容されれば可能になる。
精神は時間のエネルギーを獲得すれば可能。
物質を構築している時空は、精神をも構築、できるのだろうか。
物質を構築しているのだから、精神も構築、できるかも知れない。
物質を構築しているのは、はたして、時空、だろうか。
時空に構築されているが、構築したのは、ブラックボックス?かも知れない。
時空は他からエネルギーを受けているかも知れない。
とすれば時空は、なにからエネルギーを受けているのだろう。
 精神活動は何かに寄生していないとできないのだろうか。
宿主の意識として。
 
2009.12.07(Mon)  土佐錦魚TOP
12月 6日
 
晴れ
    外   内
朝   7℃ 11℃

 雨上がりはそれほど冷え込んでいない。
丸鉢は溢れていた。
7℃魚が餌の欲しがる度合いが、8℃とは微妙にちがう。
 この頃は六時過ぎに目が覚めるようになってきた。
2時か3時頃目が覚めないようになったのは、夏の癖がとれて来たみたいだ。
そのかわり、八時頃に眠くならない。
 彫りは眺めている時間が長くなって来た。
疲れる事はないが、刷った絵から気が付いた場所を版木に見つけるのは、反転させなくてはならず、ちょっとしたパズルのようで頭の体操になっているかも知れない。


心の起源を読んでの比較 267(番外編ナマコ8)

 精神活動を人間の活動とすれば、エネルギーが必要。
人間いう身体活動を伴っているように感じるからか。
こころの活動とすれば、エネルギーは不要。
身体活動を伴わない感じがするからか。
だけど、心の活動とした時には他の動物も他の生物も対象になっていまう。
他の生物も一緒に入る大きな心の活動、これには大きなエネルギーの流れがある。それが心のエネルギーと表現されている。
個それぞれの心となっている生心は、その流れから生まれている。
その生心への心の働きは絶える事はないが、生心の働きは個によって異なり、個によって存在する。
個の生存なくしては働けない。個が活動しなくては活動できない。
すると、人間の精神活動にもエネルギーが必要となってくる。
“考え方”を精神展開とするとき、精神の形態としてエネルギーは不要だろう。
展開する前段階のエネルギーが、そのまま維持されながら発展されているとしても差し支えない。
だが、活動にはエネルギーが必要と思える。
精神活動は脳の活動を伴う、脳は臓物としてエネルギーを必要とする。
活動を人間に頼らずに行えれば、エネルギーは不要か自己生産か。
それは人間から離れた存在となっていれば可能となる。
人間から離れた時にはエネルギーを保持しているとすれば。
そこからの展開には新たなエネルギー獲得は不要となるのか。
 精神は人間から独立できるのだろうか。
独立できるのであれば、エネルギ-を保持しているとも言えるだろう。
人間の付随活動でなく別の世界を創れるのか、別の次元となるのか。
そのためには独自活動として保持するエネルギーをどこから得るのか。
太陽光を使い有機に替えるのは駄目、三次元の無機有機はダメ。
光?、波?、温度?、熱き思い?、大きな願い?、突き進む欲?、
“考え方”にはエネルギーが存在するのか。
 
2009.12.06(Sun)  土佐錦魚TOP
12月 5日
 
曇り午後から雨
    外   内
朝   8℃ 13℃

 8度を保ってくれていた。寄って来てくれた。
昨日の餌やりはセーフになったようだ。
今日は与えようと思わずに下りて来れた。

 粗彫りの酷さにガックリ来てから、昨日で二度目を彫り終えて刷ってみると、やっとイメージの線上になってきた。これなら仕上彫りにとりくめそう。


心の起源を読んでの比較 266(番外編ナマコ7)

 精神は何時から存在していたのか。
それは、生物と呼ばれた頃ではないだろうか。
意識としての言葉のない頃の精神活動は、信号として存在していたのではないだろうか。だから、信号は心と認められなかった。?
所詮、精神とは信号のようなものなのだが。
 生物と呼ばれた頃の細胞内小宇宙からではないだろうか。
そこには生物としての意志があった。
だが、それも信号だった。それも意志として認められていない。信号は記号になってはじめて認められられるのだろうか。行動になってか、言葉になってか。
生物と呼ばれる頃以前にも意志はあったが、それは生物と呼ばれる以前の意志となる。まずその意志が働いて、生物と呼ばれる頃に至った。
その以前の意志は、精神の意志というより“命”の意志と言えるだろう。
その頃の呼び名は生命体となっている。
その頃から人間は命を“生命”と呼ぶようになっていた。
その頃から人間は心を“生心”と呼ぶようになっていない。
それは気が付いていないからか、その頃に心なんてものはないからか。
生物と呼ばれる頃の意志には、精神と言われるような意志が現れていた。
これを以て“生心の存在の現れ”と言うことも出来る。
“生心の現れ”を以て“精神の現れ”ということが出来る。
そして生心の働きや表現が、精神と受け取られるようになって行った。
 精神、人間のこころ、心の働き、ここでも人間と限定されている。
そう言われてみると、他の動物に精神という呼び名は似つかわしくない。
言葉の妙は、人間以外には心が無いと言い当てているのだろうか。
ところが、動物のこころと言うと、それなりにあるように思えてくる。
これも言葉の妙か。
人間のこころだけに精神という特別な呼び名がついていることになる。
【】が精神の起源と題うっていれば、こんな触発は受けなかっただろう。
だが、心の起源だから得体が知れなくておもしろそうになる。
心の働きにはエネルギーがいるのだろうか。
不思議に「エネルギーなんかいる訳がない」と言いたくなってくる。
精神活動にはエネルギーがいるのだろうか。
なぜだかエネルギーがいるんじゃないかと思えてくる。
 その精神活動にはエネルギーが不要なのだろうか。
 
2009.12.05(Sat)  土佐錦魚TOP
12月 4日
 
晴れ
    外   内
朝   8℃ 13℃

 真っ青な空、夜も明けていないのに。
星がとけたように。
どうやら 餌を与えられるのは日曜日まで、明日は八度以下になりそうだが、今日はやってしまいそう。もう少し明るくなってから決めよう。
(今日は寝坊して遅くなってのではありません。なかなか繋がらなくて出せませんでした。)

 風が冷たい、空気が冷たい、でも陽射しは透き通っている。
水温は上がっていないのに魚は盛んに欲しがる。
やっぱり堪えきれない。明日は鉢を覗くのが恐いようだが、与えてしまった。


心の起源を読んでの比較 265(番外編ナマコ6)

 考え方が新たな考え方を生むこの連鎖は、エネルギーを必要としていないのだろうか。
錦魚がウィルスに侵されたとき、本に学んだのは、
それは、知りたいと言うエネルギーが生まれたからだろうか。
それは、知りたいと言うエネルギーを引き出したのだろうか。
それは、知りたいと言うエネルギーが思いなのだろうか。
思いがエネルギーなのだろうか。
引き出すことは、元に有るものでないと出来ない。
〔そのときDNAよりRNAの方が前の時代だと直感した。〕は、まさに本の考え方や言葉から引き出されたことになる。
考え方の連鎖がそこに始まったことになる。
 考え方を考えの方向とすると、考えを表現できなければ方向も解らない。
そこに共通する知識と言葉が必要になってくる。それまでにRNAという言葉は聞いたことがあっても、ほとんど知らなかった。
それでも、どんなものかこんなものかと浮かんでくる。
するとそれを確かめたくなる。
数十年前からの知識がそれを教えてくれる。
その確信を得るとまた、どんなものかこんなものかと浮かんでくる。
どうして学んでもいないことが浮かんで来るのだろう。
 以前、遺伝子の温故知新と書いたことがある。
これは、能力の温故知新ではないだろうか。
言葉を借りれば、誘発因子によって働き出し浮き上がってくる。
能力の遺伝子の過去の経験や思考が、精神活動が。
誘発因子はエネルギーではない。
誘発因子はエネルギーを引き出すもだろうか。
誘発因子は切っ掛けを与えるだけで、その後は知らんふり。
目覚めたその後を働くようにするのは。
感じるや知りたいや確信が、思考の触媒なのだろうか。
それ自体にはエネルギー消費はないが、思考そのものにエネルギーが有とすれば、触発によって働き出せるように変化したり、働き出しても不思議はない。
思考を誘発すると考えるエネルギーも目を覚ますのか。
『考え方だけならエネルギーはいらない』
そこには考えているエネルギーを持ち込んでいるのだろうか。
 もしかして、精神活動にエネルギーはいらない?
本当にそうなのだろうか。
またぞろ言葉尻の迷宮が扉を開けていた。
 
2009.12.04(Fri)  土佐錦魚TOP
12月 3日
 

    外   内
朝   8℃ 13℃

 静かな雨に誘われてそのまま寝坊したが、後ろめたい気にならなかった。
丸鉢が8℃を保ってくれたので思惑通り、近寄ると餌を欲しがって寄って来た。
この分なら腹への影響も何とかなりそう。


心の起源を読んでの比較 264(番外編ナマコ5)

 つづいて時間と体重との関係が示された。
〔〕の個によって時間の流れが違うとの見方と通じる。
嬉しくなってしまう。
続いてエネルギー消費と体重との関係が示された。
時間と体重との関係とは逆の流れを示している。
エネルギー消費と時間の速さとの関係も、示された。
エネルギー消費と時間の速さとの関係は、寿命を決定していると。
エネルギー消費と時間の速さとの関係は、錦魚でも頷ける。
概して無理に大きくすると老けやすい、無理を続けると早死にする。
種によってのエネルギー消費と時間の流れとの関係が科学で示されている。
種によって基本的な大きさやエネルギーの消費量は基本的に決まっているが、
その中でも個によっても異なっている。大きな人もいれば小さな人も、太った人痩せた人、せっかちな人とゆったりした人、おおらかな人神経質な人。
人それぞれに時間は流れている。
また嬉しさが増す。
示されたこれらは、時間の加速と進化の加速とにも繋がっている。
人間はエネルギー消費の法則からは外れているのではないか、の示唆。
人間は消費し過ぎている、時間の速度を速めることばかりに使っている。
消費過度と幸福度は反比例している。
時間の過速度と幸福度は反比例している。
時間の過速、突き進む進化の加速、その進化は体外的進化、と。
「その加速は先生が知的好奇心で加速しているんじゃないの」、と、ちゃかしている。
『考え方だけならエネルギーはいらない』、と切り返す。
 たしかに、考え方だけならエネルギーはいらない。
だが、その考え方に共鳴したものへエネルギーを与える。
そこから新たな考え方が生まれる。その連鎖は加速するのではないだろうか。
〔考え方か~〕なぜか身につまされる。
〔〕がこうして、しぶとく考えている事は考え方にほかならない。
生命の起源的な事に興味をそそられたのは、錦魚がウィルスに侵されたからだ。
 そのとき久しく本を買った。
そのときDNAよりRNAの方が前の時代だと直感した。
そんな事は何十年も前に提唱されていたことだった。
学びもせずそんな希薄な知識をもとにこれを書いているのは、知識としてでなく“考え方”を書いているのだと、このとき教えられた。
学んでない事によって、かえって囚われない発想が浮かんでくる。
おまけに気楽な立場で勝手な事を書いていても、悪びれることがない。
“考え方だけならエネルギーはいらない”果たしてそうなのだろうか。
“考え方”は考えの方向、方法、あるいは考えている状態。
“考え方”だけなら多分いらない。だが
“考え方”だけがあっても、考えなければ意味がない。
“考える”は精神活動。精神活動自体にはエネルギーはいらない。だが、
“考える”活動にはエネルギーがいる。
“考え”は精神意識。これらには、
“考え”にはエネルギーがいらない。
の、だろうか。

2009.12.03(Thu)  土佐錦魚TOP
12月 2日
 
晴れ
    外   内
朝   5℃ 10℃

 昨日は暖かかかったが、今朝の冷えでは餌を与えなくて良かったことになる。
今日も暖かくなりそう、さあどうするか。もう少したってから決めよう。

 餌を与えたいという衝動と魚が欲しがって寄ってくる誘惑に、到頭負けてしまった。
明日は雨だから今朝より冷えないだろうと、都合のいい思惑。
昼間は寒いだろうが腹を壊すほどではないだろうと、勝手な解釈。
さ~て、そうであって欲しいと願うばかり。

 健康診断の結果を聞いて来ました。
全て異常なし、継いでの前立腺ガンと肝炎ウィルスも異常なし。
これでまたスキーを思う存分出来そうです。


心の起源を読んでの比較 263(番外編ナマコ4)

 【】は感覚器官による記憶や経験は遺伝子に組み込まれないと言っていたが、
そうなのだろうか。
感覚器官は生存のためだけにあるのだろうか。
感覚器官は感覚という能力の機能の発達形態と言える。
感覚という能力は生物となる以前から進化をつづけている。
勿論、生活には欠かすことができない。
適応という能力を導くために使われている。
だが、進化のための情報を得る能力としては使われていないのだろうか。
むしろ、もともとは進化のための情報を得る能力として、使われていたと感じられる。
能力を発揮できる体が整ってくると、生存への感覚器官としての利用が高まり、体が複雑になると、生存のための感覚器官としての方が、より発達を遂げたのではないだろうか。
 神経系が発達した生物を対象として極端な言い方をすれば、
生存のための感覚情報は神経系で処理される。
進化のための感覚情報は遺伝子で処理される。
 するとその割に黒いナマコは、生存のための感覚も進化のための感覚も発達していない。
同じ時間を存続して来た生物なのに、進化の推進力はどうなったのだろうか。
 一度繁栄を極めたりその最高へ達すると、その生命体や生物や社会は滅んだり弱まりを見せる。勝者必滅。
すると緩やかに過ごすようになる。
すると他が勝者になろうと台頭する。
するとかつての勝者は忘れられたような存在となる。
だが、過去の幾多の一時期の隆盛の発達形態として、その証しを存続していた。
 命のエネルギーの進化の推進力は、他の台頭する生物へ強く働きかけるようになる。その対象は現在の人間と言える。
 心のエネルギーは命のエネルギーの盛衰と共にはならず、常にその根底に流れ、その流れを止めることはない。その流れは僅かながらも増して行くように見える。それは命のエネルギーが心のエネルギーに染められてれて行くためにそう見える。その強いものの繁栄へ常に批判する自己を保ち、他を犠牲にした繁栄の滅びによって、増まして行くように見える。
他を犠牲にした経験は回帰して記憶として重なり伝えられ、微々たるものとでも次の遺伝子に心の方向として重なって行く。
 この働きは神経系でなし得るのだろうか。
それは神経系で受け入れ、伝達をしているが、遺伝子へ直接接していない。
遺伝子へは昔ながらの体液系がしている。
 
2009.12.02(Wed)  土佐錦魚TOP

  2009.12   11≪ 12345678910111213141516171819202122232425262728293031 ≫01

BackTopAdmin