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 12月31日

  12月31日

 暮れはスッカリ年賀状に取られてしまいましたが、今日はゆっくりさせてもらいました。テレビに張り付いて、絵画番組、今は神尾由美子のバイオリンが、昔のテレビでは信じられない程の音でないています。
これからはカウントダウンコンサートの番組、部屋で手直に楽しんで年を越します。来年は今年より良い年になりそう。
 皆さんも良い年を御迎え下さい。

2007.12.31(Mon)  土佐錦魚コメント(0)TOP
 12月30日 
半落ちを観て

 殺してもボケのうち。
ボケに対する恐怖心も、ボケが引き起こしています。
ボケは思い込みの病です。
正常心に見えても、隠れた強い思い込みがその言葉を言わせていると周りの人は判断すべきです。
両親でボケを経験している身としては、そう感じられます。
その遺伝子を繋いでいる私に兆侯が出た事で、同じ道を歩んでいる事を恐れ、大学病院へ検査に行きました。
結論は初期段階では惚けていないと判断。ボケが酷くなったところで初めて病状をとどめる治療が出来るようです。
医者も努力をしているでしょうが、権威をかざしているわりにつたないものです。
 殺してという事から否定しては物語が始まらない。
殺すんならお前も死ねよ。それでも物語にならない。
人を殺す判断はついても自分を殺す判断は人に委ねる身勝手が、物語を造っているようです。
 私が脊椎骨折で入院している時、隣りの病室に惚けてしまった老婆がいました。
一日童謡や唱歌を歌い、何か話しをしています。
暇なもので聴いていると、戦前から小学校の先生だったようです。
ピアノを弾きながら生徒たちに教えている光景が、優しくて楽しそうな光景が。
おばあさんは、幸せだった日々に満ちている。
毎日聴いているのに、何故か自分も教わっているような感謝の気持ちと、お婆さんがとても可愛く感じました。
可愛く惚けた人はどうするのでしょうか。
 経験から言うとボケは確実に進みますが、たまに正気に戻るときがあります。
その時の人格は普通の人と同じ。
その時の尊厳はどう扱い、どう補うのでしょうか。
惚けたら惚けっぱなしで将来は惨めなものだけとすると、その人の過去は無視しされてしまうのでしょうか、
どう尊重すればよいのでしょうか。
それとも過去もろとも惨めになってしまうのでしょうか。
 ボケは病です。
早く惚けた方が勝ち、これはボケを世話した身からの実感です。
惚けた本人は意識も信念もシッカリもっています。
ボケは確信やプライドをを持って強く思い込む病です。
だからより一層、周りでは迷惑して苦労します。
迷惑しても、苦労しても必死になって面倒みている人に、殺した人は何を言えるのでしょうか。
裁きを求める事など許されません。
哀れだったから、
腹が立ってきます。
殺す気持ちも半分解るのと、もう半分は悔しくて、危うく目からこぼれそうになってきました。
 惚けたって生きている方がいい。それが親や連れ合いに対する愛情ではないでしょうか。
家族に対する愛情は惚けた悲惨をなめると変貌しがちです。
妻から与えれる惨劇はまだ始まろうとしているにすぎません。
子供から引き続き重なるであろう惨劇に、恐れが愛情をおののかせてしまった。
哀れには違いありませんがそれまでに培った時は、哀れを埋めても余りある喜怒哀楽があったのではないでしょうか。殺す程の哀れは身勝手な見栄が引き起こす感傷でしかありません。
 警察官しかも教官が、命に対する信念をどう持ち合わせていたか。
劇中ではかなりのものをもっていたと。
子供や妻との言い知れぬ苦脳の日々が、どのような信念をも微塵にかす衝動を起こしてしまった。
この例に限らず、ここにこそ哀れをみいだせます。
でも、その哀れと罪は引き換えには出来ません。
判決は妥当と思われました。
でも、本当に罪を問われるべきは、ただ哀れむだけの世の中。
糾弾されるべきは、そうせざるを得ない状況を当たり前としてなんの手だてもしない政治。
警察、司法組織、報道の在り方、少しばかり介護にも触れています。
近年としては見ごたえのある映画だと、評をしている声を聞きましたが、
この間死んでしまった監督のように、もっと内面に、もっと重く、批判的にもっと拘って欲しかった。
 でもでも、お陰でただ見流すだけでなく、気持ちの高ぶる機会をもらった事に、友達と作品に感謝します。
2007.12.30(Sun)  土佐錦魚コメント(0)TOP
  12月29日


友達から半落ちというのを観たとメールが来ました。
かみさんが『あたしが頼んだらアンタはワタシを殺してくれるかな~』
息子が『とうさんにそんな度胸は無いよ』
スッカリ見透かされていたと言う話し。
半落ちは録画しておいたので明日、一段落したら見るつもりでいます。

2007.12.29(Sat)  土佐錦魚コメント(0)TOP
  12月28日

今日は5時間ぐらい眠れました。
今日少しは年末の用をしなくてはなりません。
年賀状ばかりやっていられないので、六時半だと言うのにこれから始めます。
 昼頃から雨が降ると言う事で仕事が一休み、午後からはまた机にかじりつき。
仕事も賀状も30日で終わりそうなめどがついたので、今日はここまで。
後15分で明日、今日のうちに寝床に着けそうです。

2007.12.28(Fri)  土佐錦魚コメント(0)TOP
  12月27日

今日も3時までと思ていたのに12時前でダウン。
胸苦しくなってしまった。
毎日3時間ぐらいの睡眠で、保つものだと不思議には思っていたが、やはり歳のようだ。今日は無理をしないでここまで。

2007.12.27(Thu)  土佐錦魚コメント(0)TOP
  12月26日
こう毎日座ってやっていると、体重はなんとか限度を保っていても脂肪率は僅かずつ上がってゆきます。
少ない筋肉が痩せて、脂肪に置き換わって行く証拠です。
この頃は寝床に着いても目が冴えて、3時頃まで眠れない日が続いています。
いっそそれなら、今日は3時までやってみることにしました。

2007.12.26(Wed)  土佐錦魚コメント(0)TOP
  12月25日

今日ぐらいはシャンパン飲んでいいでしょう。
いささか酔って早寝します。
賀状も段々手抜きをしようと思っていたのに、次第に手を込んでしまいました.
これも性分でしょうか。

2007.12.25(Tue)  土佐錦魚コメント(0)TOP
  12月24日


 なんとか100通できました。
明日錦魚関係には投函致します。
出来上がりが100になればいろいろと不満なところが出てきて来ます。
来期にはそこを直したいと感じられる事を嬉しく思いながら、101からまた始めます。

2007.12.24(Mon)  土佐錦魚コメント(0)TOP
 12月23日


 二つの仕事はうち一つを断わる事が出来ましたが、一つは明日から始まる事になってしまいました。
 朝起きて階段登りもせずにせっせと机に向かっているので、足が鈍っています。
運動にはいいかも知れません。
 この分では最後の投函が大晦日かも。
2007.12.23(Sun)  土佐錦魚コメント(0)TOP
 12月22日


後5分程で23日、毎日書いていると書かないと落ち着かない。
明日になる事が淋しくて何気ない事を書き出しました。
 今回の年賀状は、フェルメール展を観たときのオランダ版画に触発されたようです。
到底及ばないまでも出来るだけやってみたいと、気が付かないままに始めていました。
下絵のときから意気込みが違っていました。
大変なのに愉しい。
一人よがりに過ぎませんが、久々の充実感です。

2007.12.22(Sat)  土佐錦魚コメント(0)TOP
12月21日


(昔の高知の審査はどうだったのでしょうか)
と、今日から書き始めようかと思っていたのですが、とても思考できない状態です。
集中力を全部年賀状へ注いでしまっているので、しばらく御休みさせて頂きます。
 開始以後の予定では、昔の高知の審査、
続いて、伝統(高知)としての手術について、のつもりでいます。
日記とは掛け離れれていますが、毎日思いを巡らす事によって自分を整理できる良い機会とさせて頂いています。

 今回の年賀状が届いた時、込めたものを感じて頂けたら幸いです。

2007.12.21(Fri)  土佐錦魚コメント(0)TOP
121

  12月20日

 どうも人と上手くやらなくてはならない審査や会の運営は、ずれている方向性とその慣性や遊び心では円満に進まないようです。
その方向性が人間に向いていない事は自分でも認識できます。
むしろ錦魚に向いているのではと感じとれます。
 誤解も度重なるともう面倒なので、誤解されるのは口が悪かったり足りなかったり、人徳のいたらぬところと観念しています。説明や弁解は誤解を重ねるのが関の山、不得手な人つき合いより錦魚つき合いに専念して、錦魚との会話にいそしんでいます。
 これでは本当に、会の運営はできないと痛感していますが、現代社会からずれている先が錦魚だったらかえって喜こばしいのです。人生錦魚のために棒に振るなら本望。そんな錦魚馬鹿でも付き合ってくれる人には、高知の方が接して下さったように精一杯応えるつもりでいます。
(そう言えばまだ独身だった頃、近所の人から錦魚気違い、縮めてキンキチって呼ばれていました。自分でもその通りと思っていたので違和感を感じませんでした。)

2007.12.20(Thu)  土佐錦魚コメント(0)TOP
120

  12月19日

毎夜毎夜頑張ってやっていますが、一日に25枚がやっと。
この分では元旦配達を全部果たせなくなりそうです。
元旦に遅れた人は御勘弁願います。
体力が尽きたら、このブログへの書き込みも出来なくなるかも知れません。
突然そんな時が来たら、ご容赦下さい。

 本来感覚的にも普遍なはずの芸術も社会情勢で変幻しています。
私の受け入れる感覚も、中学、高校はダリに心酔し、今はルネッサンス以後の北方の写実的なあたりに傾いています。
発信する側も受信する側も時々に変幻しています。
 その十人十色の感覚を基準にしてしまうとまとめようがありません。
十人十色の情勢的感覚を認めて、十人十色がそれぞれに伝統を無視した感覚のままに流されれば、個人個人に、地方地方に土佐錦が産声を上げて、基準も規格も違う土佐錦魚が氾濫するでしょう。
 そこで創作者、創成者、創育者の定めと戒めを、継承者が守り進めた伝統を基準に取り纏める事が必要になります。
且つ伝統路線を踏み外さない事が、理想への到達を約束することになります。
 ただ、今を楽しむ、今に満足する。
受け継ぐものの希薄さ、志の小ささと既に自己の満足を達成させてしまった器に、淋しさを感じる事は片時も無いのでしょうか。

2007.12.19(Wed)  土佐錦魚コメント(0)TOP
119

  12月18日

 私の場合は冗談を言っても冗談にとってもらえないことばかり、真面目に言っているのに周りには妙に受けたりしています。
親しい友達は「おまえちょっとずれてるよ」と言ってくれますので、その辺が誤解を受けやすいところのようです。
 私の遊び心はどうも皮肉がかっているようで、テレビのお笑い番組を見ても笑えません。妙に収まりが悪く番組をかえてしまいます。生物学者と哲学者のトーク番組で哲学者の皮肉まじりの冗談に、私が大笑いをしていると周りはシラケています。私にはひねられた意図が感じられるので、ここがこう面白いと説明を付けると、なるほど、納得してくれます。
発進する側と受ける側の感覚が合えば通ずることができる、合わなければ反発さえ受けるのは致し方のないところです。
日頃、「芸術は理屈や理論が先にあって感銘を与えるのは本当ではない」
と言い、信頼されていないから誤解を受ける以上、主張には及びません。

2007.12.18(Tue)  土佐錦魚コメント(0)TOP
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  12月17日

いっそ競わなければ問題が起きないのでは、すると会の存在が薄らぐ。
発表と競うは志と良心のうちには両立しないのだろうか。
実行できていない者が言っても苦悩の内でしかない。
 人間を超越した審査員が一人だけでもいれば可能となるが、とても、とても、錦魚を飼うことじたいが煩悩から始っているから。
 そこで審査員を複数にして自戒と他戒を合わせ、介在をできる限り押さえようとしたのが複数審査員の本来なのですが、現実はさらに思惑と思惑が結びつき絡み合ってしまうようです。
 自分を強く持っている人は意地を張り易く、上に立ちたがる人は名誉を傷つけまいと保身に走ります。
 それを克服することはおそらく無理でしょう。
それでも諦める事なく解決できない迄も多少の許容と制御あるかたちで、遠い平和へ微々たる歩を進めて行くには、人の機微に通じる遊び心が必要ではないかと感じています。
 遊び心はあっても機微に通じていないわたしは、おおいに限界を感じています。

2007.12.17(Mon)  土佐錦魚コメント(0)TOP
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  12月16日

魚のために品評する。                 (純粋競技)
これに徹したいのですが、その品評を人がするため思惑が絡みます。
 理想の土佐錦魚を作るために育てる志を持ち続けている。それは今も変わらないと自覚できます。が、品評会を競いの場とするときにその思惑が産まれて来るのではないでしょうか。
 多くの場合、いつしか品評会で優勝するために飼い始めています。そのために品評の基準を伝統的なものから、品評会に、そしてそれが自分にそぐうものへといつのまにか変えてしまいます。       (個人的思惑の競技)
 多くの場合、伝統を学ばない人が現在社会に通用し易いように、思惑に合わせるように、思惑を支持する人達に添うように変えてしまいます。
                   (現代社会を繁栄させた競技)
 そこにお金が介在すると、思惑に欲が染み込み、土佐錦魚に恥じる事態となってしまいます。                    (興行的競技)
たとえその思惑が会のため、会員のため、回り回って魚のためになっても、介在しない方がいいことは解り切っています。

2007.12.16(Sun)  土佐錦魚コメント(0)TOP
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  12月15日

明日辺り彫り終わりそうです。
明後日から刷りに入って一週間、なんとか元旦配達に間に合いそうです。
毎年なんで来んな苦労をするのだろうと思いつつ、手数のかかる時程充実しているのは皮肉なものです。
投函したら直ぐに会報の編集をしなくてはいけないのですが、そんな時に限って電話が鳴り、仕事の話しが二件舞い込んでしまいました。一応断わってはいますが、断わりきれないと大変な事になりそうです。


 純粋に競えたらどんなにいいだろうと、心底思います。
それは、努力虚しく実現できていないから、実現したいと願って止まない自分があるからです。
 こうして独り書いていると冷静になれますが、審査の場に臨むと色々な思惑が渦巻いてしまいます。そして、思惑の方が強く働いてしまいます。
独りになると、しきりに後悔しています。
毎日コツコツ修行のようにしている世話と同じように、コツコツ後悔する度に心も修行を積んでいるのかもしれません。

2007.12.15(Sat)  土佐錦魚コメント(0)TOP
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  12月14日

試しに刷ってみましたが毎年のごとく、ガッカリします。
下絵の紙の厚さが掘ったときの線を太くしてしまいます。
その分細くしたつもりなのですが、白ねずみが黒ねずみになっています。
もう一度全部細くする作業をしなくてはなりません。
また今年もコツコツやるさ、、、


純粋競技と興行的競技、
伝統的競技と個人的思惑の競技、
古典的競技と現代社会を繁栄させた競技、
これを品評会に当てはめてみましょう。

土佐錦魚の品評会は当然、純粋に競う場です。
土佐錦魚の品評会は受け継がれた、伝統の基に競う場です。
土佐錦魚の品評会は創作の意と目指した理想の内に、古典を規範に競う場です。
土佐錦魚の品評会は理想の土佐錦魚を見いだすために競う場です。
土佐錦魚の品評会は理想の土佐錦魚を示すために競う場です。
土佐錦魚の品評会は土佐錦魚を理想の土佐錦魚へ高めるために競う場です。

2007.12.14(Fri)  土佐錦魚コメント(0)TOP
114

  12月13日

年賀状の下彫りが出来そうなので夢中になっていたら、こんな時間になっていました。
背中も首も手も目も痛いのですが、今年は彫っていても嫌になりません。
あした刷って、加減を見ながら仕上げ彫りにかかれそうです。


 私が若い胸をときめかして高知へ出掛けた時、古典的魚を示して下さった方々はそれぞれに、素晴らしい芸術的慣性をお持ちでした。そして若者を応援して下さる心意気、後継者育成への愛しみ、私は高知がいっぺんで好きになりました。
その芸術性も心意気も、できる事なら魚と共に受け継いで行きたい。
その芸術性も心意気も、今は感じる事が少なくなってしまいました。
その芸術性も心意気も、古典的道しるべとしています。

2007.12.13(Thu)  土佐錦魚コメント(0)TOP
113
  12月12日

 今、差し当たっての目標は、戦後の古典的魚へ戻す事です。
それが叶えば、されに戦前の古典の魚へと戻す事。
土佐錦属と呼ばれる魚をやたらと増やす事ではありません。
 私自身未だに叶えられない事を申し訳なく思っています。
 当時分けて頂いた貴重な系統を私は途絶えさせてしまったこと、返す返すも重く背負っています。
 古典的魚を知らないと、せっかくあった理想への道しるべを見逃す事になります。
 その型を示す事がせめてもの償いになっています。

2007.12.12(Wed)  土佐錦魚コメント(0)TOP
112

  12月11日

 土佐錦の現代的とは自然に理解できても、古典的とはなんとなく理解できません。
土佐錦魚の古典、古典的とは一体どのような事でしょうか。
今は見ることができない土佐錦魚の全盛期(最良期)、そこまでの歩み、歩みの考え方、方向性を指します。                (古典)
土佐錦魚は示された理想の型へと進んでいるはずですが、現在は全盛期の魚よりかなり後退しています。後退と言えるところで留まっているのか、もう路線から外れているのかも知れません。
 田村翁の戦後復活劇そして生活もままならない頃なのに、土佐錦魚を途絶えさせてはならないと言う精神的高揚から、見事に旺盛をみるまでになりました。
ところが生活が安定し楽しみが多様化すると危機感、一体感が薄れたか、維持に務めた人意外土佐錦魚への関心も向かなくなり、高知でも土佐錦魚を知らない人がいるぐらいになってしまいました。
 天然記念物に指定、全国へ普及し土佐錦魚を守ろうとした時、私は幸運にも機会を得る事ができました。
 その頃にはまだ古典的魚がかなり見られました。
今よりはるかに理想の型に近い魚達です。        (古典的魚)

2007.12.11(Tue)  土佐錦魚コメント(0)TOP
111

   12月10日

 ちょっと無理があるのですが、土佐錦になぞらえてみよう。

神が与えた理想、その一つの最高を土佐錦魚とし、
それを称える最高の美を、品評会に見いだし、
土佐錦魚の理想の形態を、芸術として産み出した。

 思ったよりはしっくり来たのではないだろうか。
でも、やっぱり、ちょっと。

2007.12.10(Mon)  土佐錦魚コメント(0)TOP
110
 
 12月 9日


純粋競技と興行的競技、
伝統的競技と個人的思惑の競技、
古典的競技と現代社会を繁栄させた競技、

この間には、さまざまな矛盾と規範が混在しています。
 矛盾として存在する本能的求めが、
ことわりを規範とする導きへと脱するには、
どうあるべきかの学びと考察が、知恵を受けるべく耕す理性の土壌を必要としているのではないでしょうか。              

2007.12.09(Sun)  土佐錦魚コメント(0)TOP
109

  12月 8日

 私は宗教に学び尊んでいますが、独りよがりに神をエネルギー体とし、万能であっても神自身では実現できないことを、生命をもって実現しようと試みているのではないかと、考えを巡らしています。
 その実現を試みている行き着く先は 平和の世界。
生命体は命をもっている宿命として、生きることに矛盾を抱えています。
その矛盾から平和へ導く手段として、ルールを定める知恵を働かせました。
その知恵は、失敗から得た知識の蓄積からではなく、宇宙の理を規範としています。
 生命体の本能と知恵との戦いは過ちを繰り返しながらも、僅かづつですが神の目的へと近づきつつあります。

2007.12.08(Sat)  土佐錦魚コメント(0)TOP
108

  12月 7日

 どうして相反する象徴が、ともにこの時代に存在したのでしょうか。
古代格闘技は奴隷に代表される、本能的残虐性や低俗的闘争心を満足させ、むしろ不満のはけ口に用いられ、
古代オリンピックは神々も参加する、人間を神に近づける人間讃美的高尚な競技とされています。

神が与えた理想、その最高を人体とし、
それを称える最高の能力を、競技に見いだし、
人体を理想の形容として、芸術を産み出した。

2007.12.07(Fri)  土佐錦魚コメント(0)TOP
107

  12月 6日

 ある意味まさに格闘技ですがそうすると、はたしてプロ野球はスポーツなのでしょうか。
それとも純粋なスポーツではなく、興行的格闘技的スポーツだからでしょうか。
 スポーツでない一種興行的格闘技は古代のギリシャやローマ時代に見られる、観客の真っただ中で命をかけて戦うやり取りが、端を発しているのではと推測しています。
 一方ギリシャ時代の古代オリンピックはスポーツの端と言えます。
その違いは、
指示する観客が興奮と満足を得るために格闘する、理性的ルール無き戦い。と、
観客と選手がともに納得して称賛しあえる、理性的ルールを構築した競い合い。

2007.12.06(Thu)  土佐錦魚コメント(0)TOP
106
 
 12月 5日

 ここにきて気が詰まるような話しばっかりなので、普段の具体的な視点を切っ掛けにして、高知化にアプローチしてみたいと思います。

 私は、プロ野球を見ることは殆どありません。野球で見るのは高校野球を少しだけです。
 子供の頃には野球に興じたこともあり、ごく普通に接していましたが、大人になったある日のこと。
 有名な選手が解説で「野球は格闘技です」と言っているのを聞いてからでした。
キャチャーがホームベースをブロックして死守していることは、素晴らしい、と。
ランナーがスパイクをキャチャーへ向けて突っ込んで行くことが、ファイトみなぎると。
 私には走塁妨害に見えたのですが? 
それを破るべく体からぶつかったり、スパイクを向けるのは、悪循環ではないのでしょうか。
どうして速さやタッチする技で勝負しないのでしょうか。
 1塁走者が二塁へ向かう時に、フォースプレーで既にアウトになっているにもかかわらず、ダブルプレーにしようと塁を離れて、一塁へ送球しようとしている選手へ向かって滑り込んで行く。そのためジャンプしての送球が少しそれて、一塁がセーフになると解説者は、果敢なプレーでチームに貢献していると絶賛していた。
これって守備妨害では?
それでも抗議もでない。
それが認められている世界。
それとも暗黙の了解。
奨励されていること。

2007.12.05(Wed)  土佐錦魚コメント(0)TOP
105
 
 12月 4日


 伝統の復古は真の高知化へと導き、再び高知に活力をもたらす。
地方は伝統の志を継ぐ事で高知と共存することができ、竸存、竸盛が共盛、共進を可能として、分流ではなく共流となる。
 門外不出の土佐錦魚を高知から全国へ出したこの志を、受け止めたいものです。

2007.12.04(Tue)  土佐錦魚コメント(0)TOP
104
 
 12月 3日

 先達の思いと努力と成果を過去のものとしてしまい、自我の踏み台にしてしまって良いのでしょうか。
 先達の知識と知恵と汗と思いを再び受け止める。
伝統への志を継ぐ事が伝統の継承を成し遂げる。 
伝統の辿るべきは、創作から理想への筋道。   
伝統の進化は、理想の土佐錦魚の具現化への道。
伝統の復古、温故知新。                (温故知新)

2007.12.03(Mon)  土佐錦魚コメント(0)TOP
103

  12月 2日

 全国どこでも土佐錦を飼っていれば土佐錦であり、そこに伝統が芽生えるという錯覚と、
高知に住んでいれば伝統を継いでいるかのような錯覚で成り立つ。
各地の自分がこれからの伝統を創って行くという錯覚で成り立つ。
 錯覚を認識へと導くのは高知としての自覚意識、高知化の意識、自我の抑制と伝統の尊重、伝統の再認識。            (伝統の高知化)

2007.12.02(Sun)  土佐錦魚コメント(0)TOP

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